このデジタル展示は、矢田貝家文書の調査・研究成果の一端を広く公開し、さまざまな活動に役立てていただくため、島根大学法文学部山陰研究センターと東京大学経済学部資料室が連携して開設したものです。
矢田貝家の歴史
大山(だいせん)の西麓、日野川のほとりに位置する伯耆国・上細見の地(現・鳥取県西伯郡伯耆町上細見)。矢田貝家は、幕末から現代までに至る約150年間、この地で暮らしてきました。
矢田貝家は元来、出雲地方で製鉄業に従事していましたが、近世初期に伯耆国日野郡で帰農し、その後上細見村の近隣地へ移り住んだと伝えられています。
幕末になると、矢田貝齊一郎(さいちろう/1824~1894)が行商で身を立てて分家し、初代当主として現在の地に屋敷を構えました。2代目・平重(へいじゅう/1851~1904)の時代までは酒・醬油など醸造業を主業とし、明治末期に家を継いだ3代目・猶治(なおじ/1880~1921)の頃になると株式投資や地主経営へ家業を収斂させていきました。 4代目・顕造(けんぞう/1905~1992)は、大正末期に若くして当主を継ぎ、地主経営に特化しつつ家業を支えてきました。しかし、第二次世界大戦後の農地改革によって所有地の大半を失い、矢田貝家は主業を失いました。戦後、顕造は岸本町(現・伯耆町)の町長を務めるなど地方政治家として活躍しました。
矢田貝家の建築と庭園
矢田貝顕造は学問や芸術を愛する教養人でもありました。昭和初期から、自らの文人趣味や美意識にあわせ、自邸の敷地を拡張するとともに、その中に大規模な回遊式池泉庭園や附属の建造物を造営する工事に着手しました。この工事は戦時期に至るまで15年ほど断続的に続き、現在に残る屋敷の景観が形成されました。
顕造が整備した庭園は、幕末に建てられた主屋を中心に、表庭、露地(茶庭)、裏庭を配した広大なもので、茶室や待合など数々の建物のほか、庭景を彩る石灯篭や道標なども設置されています。また、現在は枯れているものの、それらをつなぐように水の流れが造られており、訪問者は流れに沿いながら邸内を散策し、四季の景観を楽しめるようになっています。
顕造は晩年まで自宅で暮らし、没後に後を継いだ5代目・淑朗(しゅくろう/1926~2013)をはじめとする家族・親族の手によって、現在に至るまで家屋敷が維持されてきました。2011年には、邸内に残る建築のうち、主屋、離れ、茶室、腰掛待合、土蔵、長屋門、庭門、中門の8棟が「矢田貝家住宅」の名で国の登録有形文化財に登録されました。また2025年には、庭園のうち約4400平方メートルが、「矢田貝氏庭園」として鳥取県名勝に指定され、建築とともに保存が図られています。
矢田貝家文書
矢田貝家に関する文化財建造物調査の過程で、土蔵や主屋の内部に膨大な文書群=矢田貝家文書が残されていることが判明しました。これを受けて、2011年から東京大学経済学部資料室を中心とする学術調査が開始され、2015年からは島根大学法文学部もこれに加わりました。
矢田貝家文書は、初代・齊一郎が活躍した幕末期から、顕造が岸本町長を務めていた昭和戦後期に至るまで、約150年間に及ぶ家業・生活に関するほぼ全ての記録が、タイムカプセルのようにそのままの形で残存していることが特徴です。その点数は、概要調査の段階でおよそ4万6,700点に及ぶことが判明し、関係者による目録作成作業が2026年まで実施されるとともに、様々な学術分野の研究活動に活用されてきました。
このデジタル展示「山陰地域の近代経験」は、矢田貝家文書の調査・研究成果の一端を、資料の画像とともに、4章仕立てで紹介します。