後発の近代国家として歩みはじめた明治期以降の日本では、欧米諸国を範にして、さまざまな思想や制度、技術、文化などが流入しました。それは山陰地域も無縁ではありません。確かに近代的な社会インフラの整備は、東京や大阪などの都市部に比べると遅れましたが、山陰地域の人びとは新しい時代に相応しい社会基盤を意欲的に求め、その形成に努めたことがわかります。
米子新聞の発刊
山陰ジャーナリズムの黎明
1873(明治6)年
明治政府は、1871年に「新聞紙条例」を発布して、新政府に批判的な新聞をすべて締め出して宣伝や発表に利用しようとした。そのような動きに対して、1873年に在野の新聞として、米子新聞は創刊された。
この史料は、記念すべき米子新聞の第1号である。巻頭の広告では、「勉めて県庁に侫せず、俗情に阿(おもね)らざる」と、官の意向を民衆に伝えるだけの上意下達の新聞でないことを表明している。そして、「見聞を弘め、智識を開」く啓蒙こそが新聞発行の意義としている。
立憲同志会鳥取県支部の発足
非政友会派の糾合と政党政治の地方波及
1915(大正4)年
立憲同志会は、1913 年に結党された国政政党で、のちに憲政会へ発展していった。鳥取県選出の衆議院議員奥田柳蔵は、1913年に桂太郎が立憲同志会を結成した際、その動きに呼応するように鳥取県支部を発足している。
この史料は、立憲同志会鳥取県支部発会式の案内状である。地方における政党政治の発達は、圧倒的な支配力を持つ知事を中心に進められてきた経緯があり、大正初期の鳥取県政運営は政友会派に有利に展開していた。対する非政友会派は、そのような地方自治への介入を非難するかたちで勢力を成立していったが、これは政党政治が地方へ波及する幕開けとなった。
山陰線の開通
米子での山陰鉄道開通記念博覧会の開催
1912(明治45)年
鳥取県は1892年、鉄道院に「山陰東方線実現請願書」を提出し、翌年には、私設中国鉄道と官設線敷設の見通しが立っていた。しかし、日清戦争の勃発により中断され、実際の着工は1900年まで延期となり、ようやく1912 年に京都駅-出雲今市駅間が開通した。開通を祝して、同年5月10日から6月10日にわたって「山陰鉄道開通記念全国特産品博覧会」が米子町で開催されている。
この史料は、博覧会会場での各種イベントの招待状である。6月4日には朝日座で山陰青年大会が開かれ、大隈重信が演説した。
伯備線全通式 悲願の陰陽連絡線の開通
1928(昭和3)年
1920年に鉄道省が設置され、第一次世界大戦後の輸送需要の増加にともない、鉄道敷設は黄金期を迎えた。伯備線もこの時代に建設されたもので、岡山県の倉敷駅から鳥取県の伯者大山駅までの陰陽を結ぶ路線であった。
この史料は、1928年に新見町で挙行された伯備線全通式の案内状である。中国地方を東西に走る山陽線と山陰線の中間地点に位置しており、地元にとっては悲願の横断線となった。
山陰電気株式会社の設立
電灯の普及から工業電力供給へ
1907(明治40)年
山陰電気株式会社は、1907 (明治40) 年に米子町に設立された。この計画は、坂口平兵衛など米子町の実業家たちによって、すでに1900年頃から進められていたとみられている。
この史料は、山陰電気株式会社の設立趣旨書である。設立後の業績は順調で、1911年(明治44)までに発電所の拡充が進んだ。米子町を中心に、鳥取県西部地域での電気供給を担いながら、1912年(明治45)からは、工業用電力の供給も開始している。
山陰瓦斯株式会社の設立
木炭優勢のなかでの山陰のガス普及
1911(明治44)年
1912年に山陰線が開通し、山陰にも工業化の波が到来した。このような動きを背景として鳥取・倉吉・米子・境港・松江を供給先とする山陰瓦斯株式会社が設立された。この史料は、山陰道瓦斯株式会社の設立趣意書である。計画段階では「山陰道」と称していたことがわかる。
しかし、業績は伸び悩んだ。設立後わずか1年半で名古屋を本拠地とする大正瓦斯株式会社へと合併されるが、業績不振が改善されることはなく、1917年にはガス事業者が山陰地域から撤退してしまう。中国山地の豊富な木材を原料とする木炭によって、家庭燃料のほとんどがまかなわれており、ガス需要が見込めなかったことが理由として挙げられる。鳥取県西部では、米子瓦斯株式会社が設立される1930年までガス普及が軌道に乗ることはなかった。
米子自動車株式会社の発足
鳥取県でのバス事業展開と公益性の追求
1928(昭和3)年
大正時代に入ると、自動車の信頼性も高まり全国的にバス事業が拡大していった。バス交通は鉄道網の乏しい地域で興隆しながら、鉄道と同じく主要幹線として地方を支えていくことになる。この史料は、米子自動車株式会社の株主配当額の通知書である。
鳥取県で初めてバス事業が運行されたのは、1912年の米子-法勝寺間であったが、すぐに中小規模の会社が乱立し、路線の争奪や圧迫が繰り返され政治上の争いの種ともなった。その後は、バスの公共性の確立を目的に、徐々に政争と事業の切り離しと業者の統一が図られるようになった。鳥取自動車株式会社を中心に会社の合併が進み、1930年に日ノ丸自動車株式会社が発足している。
博愛病院の創立
西洋医学の普及と鳥取県の医療
1921(大正10)年
西洋医学は高価なものであったが、徐々に幅広い層に向けた医療提供が目指されていった。鳥取県では、1883年に公立の鳥取病院が開院し、1915年に日本赤十字社鳥取支部病院(現在の鳥取赤十字病院)となっていった。また、1891年には、私立の因幡病院(現在の鳥取県立中央病院)が作られた。鳥取県東部に病院が集中するなかで、米子町に1921年に株式会社組織として博愛病院が開院した。
この史料は、株式会社博愛病院の創立趣旨書である。創立の趣意文や賛同者から、大規模病院を待望する鳥取県西部の広範な名望家たちによる出資によって、地域医療が支えられていたことがわかる。
因伯孤児院と社会救済事業
慈善会による活動支援の展開
因伯孤児院(現在の因伯子供学園)は、八雲数枝によって1906年に倉吉の妙寂寺内に創設された私立因伯仏教孤児院から始まる。これが1912年に財団法人として認められ、国や県から助成金を受けることとなった。しかし、経営は困難を極めていたと思われ、因伯孤児院慈善会の有志らによって写真会などの活動収益が運営にとって不可欠であったと考えられる。
これら史料には、そのような因伯孤児院慈善会の活動趣旨が述べられている。慈善会の発起者としては、村長や教育者たちが名を連ねていた。
米子高等女学校 校舎増築
女学校の拡充と良妻賢母教育の徹底
1935(昭和10)年
高等女学校は旧学制下の女子の中等教育機関である。女子教育機関は1899年に勅令として高等女学校令が発令されたことに始まった。この背景には、女性の社会進出や婦人雑誌の創刊などに影響を与えた大正デモクラシーが、女性の高学歴化を促進させたことがある。1906 年に開校された私立米子女学校が、1909年に県立に移管され、鳥取県立米子高等女学校(現在の鳥取県立米子西高等学校)となった。高等女学校では、教科教育以外の学校生活全般においても、理念としての良妻賢母が理想的女性像として目指された。
この史料は、米子高等女学校の学級増加にあたっての校舎増築落成式の案内状で、女学校が拡充していく様子をうかがい知ることができる。
県立図書館の建設賛同依頼
図書館の整備と言論・思想の文化的発展
1929(昭和4)年
近代的な図書館は、1899年の図書館令の公布や社会教育の整備、大正期のリベラルな思想影響もあいまって飛躍的に増加した。鳥取県会は、1927年に昭和天皇即位の御大典記念事業として、県立図書館の建設を決定する。これにともない市立鳥取図書館は県に移管され、新しい建物が建設されることとなった。
この史料は、鳥取県立図書館建設への寄付を募るものである。閲覧室と書庫の他、講堂や食堂、売店などを備えた鳥取県立図書館(現在のわらべ館)は、地元の文化人、各界の人材を集めて、まさに地域文化と社会教育の中心として活発な活動拠点となった。
日本放送協会中国支部の設立
ラジオの誕生
1927(昭和2)年
1925年、東京でラジオ放送が開始された。逓信省は全国どこでも放送を聞くことができる環境をつくることを目標に、全国的な組織をつくる構想を1926年に省議で決定し、日本放送協会が発足した。
この史料は、親族からの手紙で、ラジオ会員への加入を求めている。「廣島ニ放送(ラジヲ)協會中国支部」が設立されるに際して、「廣島逓信局より割当を以て會員」を募集する指示があった。地域の顔役として、その担当を引き受けた親族家は、勧誘に苦慮している様子がうかがえる。