急激な近代化を遂げつつあった日本社会には、さまざまな矛盾や軋轢がありました。経済的な格差の拡大や、偏見や差別、また、地震や水害などの災害も多くありました。同時に、そのような社会問題に対する認識の深まりや、解決へ向けての模索も続けられました。
山陰土地株式会社の創立
小作争議の拡大と地主的な温情主義の限界
1927(昭和2)年
戦前日本農村の経済的な格差は、地主小作関係に象徴されていた。そのようななか、1922 年には日本農民組合が創立されて、西日本を中心に継続的・組織的な小作争議が多発するようになった。鳥取県西部では、日本農民組合鳥取県連合会本部のあった箕蚊屋で、1924年から小作料減免を訴える争議が継続していた。この箕蚊屋争議は、大々的に報道されて全国的にも有名であった。
地主側は、対抗する形で山陰土地株式会社を設立した。小作人に対して「温情主義」を掲げてきた地主にとって、小作争議の激化にともなう団体交渉や訴訟、差押え、土地立入禁止処分などの法的手続きは、社会的信用の失墜を引き起こす可能性が高かった。これらを会社の代行に委ね事務的に処理することは、地主側にとって好都合であったといえよう。この史料は、その山陰土地株式会社の創立趣意書である。
鳥取県の米騒動
寄付による米の廉売と騒動の終息
1918(大正7)年
1918年8月、日本国内では第一次世界大戦後のインフレ、非農業人口の増加、シベリア出兵の決定を受けて米の暴騰が続いていた。そのようななか、富山県の漁民妻女が米の安売りを求めたことに端を発した米騒動は、連日の新聞の報道も重なり全国各地へ飛び火した。
この史料は、米価騰貴にともなう窮民救済への寄付に対する感謝状である。鳥取県においても、米価の暴騰は例外ではなかったが、憲兵・警察による厳重な取り締まりと、県内の名望家の寄付活動によって米の廉売が行われたため、大きな騒動は発生しなかった。しかし、廉売といった慈善事業は、一時的な解決法に過ぎなかったといえよう。大阪では、長期的な救済事業補助を目指して方面委員(現在の民生委員の前身)が設立されている。
鳥取県癩予防協会の創立
無らい県運動による隔離と差別
1937(昭和12)年
ハンセン病は、らい菌によって引き起こされる感染症である。発症すると見た目の変化が大きくなることや遺伝病と間違われたこと、癩予防法による政府の強固な隔離政策などが原因で人々に極端に恐れられた。1940年代に特効薬プロミンが開発され完治する病気となっていたが、隔離政策は継続された。
この史料は、1937年の鳥取県癩予防協会創立総会の案内状である。鳥取県知事立田清辰は、1936年の着任早々に、ハンセン病患者救済の強い思いから県内の一斉調査を実施した。県民にハンセン病患者の隔離の必要性が訴えるいわゆる「無らい県運動」を展開していった。このような鳥取県の動きは注目されたが、結果としてさらなる患者への偏見へとつながっていった。
鳥取県海外協会の設立
国策によるブラジル移民送出の推進
1926(大正15)年
近代日本の農村部では、余剰な労働力によって家計が圧迫される状況が生まれ、海外への出稼ぎ労働者が増加していった。当初の有力な移民先は北米だった。しかし、現地での日本人の急激な増加は、白人の人種的恐怖心を煽り、組織的な排斥運動に発展して、日本人移民の入国を禁止するに至った。その後は、ブラジルが主要な渡航先になり、国策によるブラジル移民が奨励された。この史料は、1926年に鳥取県海外協会が設立された際の資金募集に関するものである。
移民の募集には、高待遇や高賃金をうたっていたが、実際は居住環境は悪く労働は過酷なものであった。そのため日系移民の間では、移民計画を「棄民」と揶揄する声もあった。移民たちは、永年にわたって過酷な状況を粘り強く改善していき、いまの日系ブラジル人社会を形成していった。
鳥取地震と情報統制
厭戦感情への警戒とうわさの拡散
1943(昭和18)年
鳥取地震は、戦時中の1943年9月10日午後5時37分、鳥取市を中心に発生した大地震である。地震による被害は、死者1,210人、負傷者3,860人、倒潰家屋数は27,395棟と記録されている。地震発生時は、アジア・太平洋戦争の最中で、国家による情報統制下にあった。そのため戦意低下を招く災害の情報は秘匿され、新聞でも最低限の記述しかされなかったことから、のちに幻の地震と呼ばれるようになった。
しかし、ここで紹介する軍事郵便では、マレー半島の戦地にいる兵士にまで地震の情報が拡散していたことがわかる。戦時中の情報統制下であっても、うわさを通して人びとは情報を収集していたことをうかがい知ることができる。