資本主義経済が本格的導入されていった近代日本では、山陰地域でもさまざまな会社や工場が設立されていきました。矢田貝家文書からも、国際市場と密接に関連しながら産業が発展していった様子がうかがえます。また、各地の温泉や景勝地が、関係者の尽力によって観光資源化していく動きもありました。
因伯米共進会
米穀検査の開始と産米改良
1893(明治26)年
日清戦争後、日本は外貨獲得のために在来物産の輸出を奨励しており、米はアジア、ヨーロッパへ向けて輸出されていた。長い輸送距離と時間から、輸出米には俵装などの厳格な品質確保が求められており、これが地主や商人からなる同業組合が米穀検査を始めるひとつの要因となった。
この史料は、殖産興業の奨励を目的として1893年に開催された品評会「因伯米八種共進會」の趣意書である。因伯米とは、因幡と伯耆を一本化した鳥取県の銘柄米であったが、市場の評価は低かった。こうした現状を憂い、改良を進めて品質を向上させるとともに、国内外における因伯米の名声を高めることが目指された。
山陰製糸株式会社の蚕種配布事業
養蚕の普及と製糸業の展開
近代日本において養蚕と製糸業は、外貨獲得にとって最重要の産業であり、国を挙げて奨励された。明治以降の広汎な製糸業の展開を前提に、積極的に蚕種改良も進められていった。製糸業者による養蚕農家への蚕種配布も開始され、鳥取県でそれをリードしたのが山陰製糸株式会社である。
この史料は、山陰製糸株式会社の第1回事業報告書である。もとは東伯郡で操業していた製糸場が営業範囲を拡大させて発展し、1911年に山陰製糸株式会社となった。糸質良好で糸量も多かったことから声価が高まり、繭の上簇数は毎年数万枚ともなった。
鳥取県山林会の設立
木材需要の増加と林業の展開
1915(大正4)年
木材の需要は、近代に入ってから都市部で大きく増加した。鳥取県では、東部は地勢が急峻であったが、千代川を筏流しで鳥取港へ流す交易路があり、智頭林業の名とともに製材商品が全国へと流通した。一方の西部では、製鉄業の木炭燃料としての消費が多かった。
この史料は、鳥取県山林会が各府県山林会のひとつとして1915年に設立された際の挨拶状である。鳥取県山林会は、林業知識の普及を目的とした講習会や品評会を開催し、民間の林業者間の連絡機関として役割を果たした。また、洪水対策のための造林や、鳥取砂丘の防砂林の設置なども重視していた。
米子家畜市場の設立
家畜流通の近代化
1911(明治44)年
中国山地は、近世から和牛の有力な生産地として名声が高く、鳥取県の大山博労座は、日本最大の牛馬市であった。しかし、当時の家畜市場は、バクロウと呼ばれた牛馬商が袖の下で相手の指を握り価格を決めて契約する旧来の慣習そのままで、その弊害も指摘されていた。
この史料は、1910年施行の家畜市場法にもとづいた新たな家畜市場の設置を米子町の有志たちが求めているものである。牛馬商の積弊を一掃して、家畜の売買を円滑にすることを目指したが、その後も商人たちとの軋轢が激しく、市場運営の近代化は苦難の道のりであった。
米子での氷営業
人工製氷の誕生と天然氷との競争
1913(大正2)年
1883年に東京製氷会社が設立されたのをはじまりとして、人工氷の生産が各地に拡大していった。しかし、まだ世間の人工氷に対する安全性への疑念が強かったため、当初は販売に苦戦したという。従来の天然氷との販売競争は激化していったが、比較的安かった人工氷は徐々に販売を増やしていった。
当時の米子町では、福万村の高田家が切り出す大山の天然氷が有名であった。この史料は、高田繁太郎が共同出資者に対して事業報告会を開いている様子を伝えている。一方の人工氷に関しては、東伯郡橋津村出身の中原孝太がアメリカで技術を学び、1898年に米子町にて製氷会社を設立している。
米子 皆生競馬場の招待券
皆生温泉の開発と発展
温泉地は、近代に入ると交通網の発達や観光業の発展により主要な旅行や行楽の場へと変化していった。温泉を中心にした開発計画によって、温泉隣接地にはさまざまな娯楽施設が建設されていく。
この史料は、米子近郊の皆生温泉にあった皆生競馬場への招待券である。皆生温泉土地株式会社(現在の皆生温泉観光株式会社)を立ち上げた有本松太郎は、温泉源を掘り当てると、旅館などを建設し、乗合自動車会社の経営にも乗り出した。その後も米子駅前からの路面電車を開通させるなど、着実に開発を進めていった。
鳥取県の旅行案内
南朝正統論と名所旧跡の形成
1906(明治39)年
国家主権を天皇におく明治国家体制のもと、南朝関係者を祀る神社の創建や再興などが盛んに行われるようになった。そのような南朝正統論は、人びとの歴史意識に大きな影響を与えており、観光案内書にも反映されていった。
当時における鳥取県内の旅行案内書として発刊された『燈明臺』も、後醍醐天皇に関わる名所旧跡が強調されている。たとえば、後醍醐天皇の隠岐配流に同行しようとした第三皇女の瓊子(たまこ)内親王の墓所や遺品が多数残されている米子市福市の安養寺は、その代表地ともいえよう。
大山国立公園の指定
不況対策による景勝地の観光資源化
1936(昭和11)年
国立公園とは、日本を代表するすぐれた自然の風景地を対象に、その自然環境の保全や国民の教養に資することを目的として国が指定・管理する自然公園である。昭和恐慌に苦慮した政府は、不況対策の観光事業として国立公園をとりあげ、1931年に国立公園法を制定した。
鳥取県でもこの時期に大山国立公園協会が発足し、指定に向けた運動が功を奏して、1936年には国立公園となった。スキーや登山などのレジャー客の誘致とともに、独自の陶器として大山楽焼の復興が企図されている。