近代日本の歩みは、対外戦争の連続でした。国内では、戦争の遂行を支えるさまざまな組織が形成されていき、人びとは有無を問わずに巻き込まれましたが、時として積極的に関わることもありました。その一端を、矢田貝家文書の細部からうかがい知ることができます。
米子での旅順陥落記念大パノラマ館
観光地化する日露戦跡
日露戦争後、旅順は日本の軍事的拠点となり、日本海軍により旅順要港部がおかれた。旅順は、戦跡巡りと慰霊を目的とした日本人にとっての一大観光地となり、旅順駅から大型バスによるツアーも組まれている。
この史料は、米子町の光木商店から届いた「日露戦争旅順陥落記念パノラマ館」への入場割引券で、戦果を祝う国内の熱狂を伝えるものである。パノラマ展示とは、半円形に湾曲した背景画の前に草木や人物などの模型を配して立体感を現した展示装置で、戦況を描いたものが人気だった。
日本赤十字社へ入会
日清戦争から始まる国外での戦時救護活動
1896(明治29)年
日本赤十字社の前身「博愛社」は、1877年に、西南戦争による傷者救護のため設立された。1886年に日本政府はジュネーブ条約に加盟したことで、日本赤十字社と改称している。以来、災害時の救護派遣や、義援金の募集、医療事業や看護師養成、社会福祉事業など幅広い事業を展開している。戦前においては、日清・日露戦争、第一次・第二次世界大戦における戦時救護活動も特筆すべきものとなった。
この史料は、日本赤十字社鳥取支部からの通知書で、日清戦争時の社員増員の様子がうかがい知れる。日本赤十字社の財源は社員による年醵金であったため、各地で積極的な社員の募集がおこなわれた。
鳥取県防犯協会発会式
警防団の発足と国民防空体制への動員
1938(昭和13)年
警防団は、1937 年に勃発した日中戦争の最中、警防団令の発令によって組織された。国民は自分たちの手で国を守らなければならないという国民防空体制の構想のもとで、前身である防護団と消防組をあわせて主に在郷軍人と青年団によって組織された。その後、民衆を戦争に動員する重要な役割を果たすようになる。
この史料は、1938 年の鳥取県防犯協会発足に際しての創立総会案内状である。鳥取県でも、警防団令の発令を受けて、国防意識を高めることが目指された。空襲の危機が高い都市部だけでなく、農村部でも警防団は設置されていったことがわかる。
国防婦人会大幡村支部発会式
総力戦体制と銃後女性の組織化
1931年に勃発した満洲事変への献金活動に影響されて、大阪国防婦人会が結成された。大阪港から出発する出征兵士たちに、ただ旗を振るだけでなく、白いカッポウ着で湯茶の接待をすることから始まった。その後は、庶民女性を象徴する白いカッポウ着にタスキ掛けをトレードマークに、全国各地に支部が結成されていく。
鳥取県では、1933年に鳥取国防婦人会が結成され、全国的にもその動きは早かった。この史料は、国防婦人会大幡村支部発会式の案内状である。これらは婦人による自発的で献身的な奉仕活動であったが、結果として国家的な総力戦の体制に絡めとられることとなった。
米子航空機乗員養成所
大陸への航空路拡大の中継地
1938(昭和13)年
米子航空機乗員養成所は1938年に開所され、終戦までに卒業生約850名を輩出した。それは、大陸の航空路拡大の中継地点として、仙台と同じく選定されたことに始まる。操縦生の受験資格は、旧制中学校3年修了ないし卒業者で、衣食住は全て国庫から支出された。生徒は全員が寄宿舎に入り、軍隊と変わらない日課で訓練を受けたという。アジア・太平洋戦争では、陸海軍の軍備の更なる充実が求められ、養成所を卒業するとなかば強制的に応召されるようになった。
この1944年の史料は、大山辺りでの養成所生徒による実地行軍への配慮に対する礼状である。戦時期の航空機乗員養成所が、もはや軍隊化していた様子をうかがい知ることができる。