第III部  海を渡ったスミス : スミスの思想の東アジアへの波及

 スミスの思想は海を渡り、百年以上もの時を経て極東までたどり着きました。彼の旧蔵書は、甥(あるいは、いとこの息子)のデイヴィッド・ダグラスが相続し、その死後に2人の娘に譲られました。バナマン夫人相続分はエディンバラ大学に寄贈され、カニンガム夫人分については、一部がクィーンズ大学ベルファストに寄贈され、一部が市場に出回り、東京大学経済学図書館所蔵分もこれに含まれます。

 スミスが出版した書籍は、ヨーロッパ系言語のみならずアジアの諸言語にも翻訳され、各国・各時代の思想的風土において新たな生命を得ることになりました。スミスの代表的著作『国富論』は、日本では1883(明治16)年に初訳され、中国では1902年に翻訳されました。

「寄附願控」の封筒

「寄付願控」

「アダム・スミス旧蔵書寄付願控」 

 

 新渡戸稲造は、国際連盟事務次長として渡欧した際に、ロンドンの古書店でスミス旧蔵書131部303冊を購入して東京帝国大学に寄付しました。展示画像は、新渡戸から東京帝国大学総長の古在由直に宛てたアダム・スミス旧蔵書の寄付願の控で、現在は、封筒と別添目録とともに経済学部資料室に残されています。
 書類は、渡欧中の新渡戸に代わって、当時経済学部長であった山崎覚次郎が代筆しています。新渡戸は1920年7月23日付の山崎宛書簡の中で、「右を新設経済学部へ寄贈致度候、就いては本日右書肆より直接貴学部宛書籍入六箱発送爲致候間到着の上は何卒可然御取計ひ被成度候」と記して、前年に設置された東京帝国大学経済学部へ、スミス旧蔵書を寄贈する意向を示すとともに、手続きについても山崎に一任していました。


矢内原忠雄編『新渡戸博士植民政策講義及論文集』

(1943年) 

 

 1909(明治43)年東京帝国大学に植民政策講座が新設された際に、新渡戸稲造が担当教員を務めました。講義を受けていた矢内原忠雄(1893-1961)は、その講義内容の書籍化を構想して、本人の許諾を得ましたが、新渡戸はその出版を待たずに1933年に死去しました。書籍は、矢内原による講義(1916-17年度)のノートを基幹に、高木八尺(1914-15年度)および大内兵衛による講義ノート(1912-13年度)を補って編集が行われました。
 展示画像の一つは、第6章「植民統治」の一部。ここで新渡戸は、スミスの『国富論』第4編第7章「植民地について」を引用し、「彼[スミス]は”The merchant is a poor king.”商人は王としては貧弱である、不適当である、と言って、大いに特許会社を批判した。」と講義の中で述べています。東京大学経済学図書館所蔵の本書は、経済学部初代学部長・舞出長五郎の旧蔵書です。

タイトルページ

  第6 章「植民地の統治」の一部

(pp.106-107)


第1冊表紙

第1編冒頭

石川暎作・嵯峨正作訳『冨國論』(1883-88年)

 

 『国富論』の日本語初訳、全12冊。大河内一男の旧蔵書で、出版当時の原装を保っており大変貴重な資料です。翻訳事業は、田口卯吉の主宰する「東京経済学講習会」が出版した『東京経済学講習会講義録』に、その一部分が掲載されたことに始まります。慶應義塾出身で翻訳者の石川暎作(1858-86)は1886年に死去したため、彼が手掛けたのは9冊までで、残りの作業は嵯峨正作に引き継がれました。日本語翻訳版の標題は当初『冨國論』とされましたが、1921年の竹内謙二訳から『国富論』に変化しました。


厳復訳『原富』(1902年)

 

 清末の思想家で、イギリス留学経験もある厳復(Yan Fu, 1854-1921)の中国語初訳、排印線装本(鉛活字印刷の袋綴)全8冊。展示資料には、「明治四十四年後藤男爵寄贈」の朱印があることから、初代満鉄総裁や逓信・外務などの大臣、東京市長などを歴任した後藤新平旧蔵と推定されます。
 厳復は、スミスのほかハクスリー、スペンサー、J.S.ミル、モンテスキューなどの著作を翻訳し、思想的な側面から中国の近代化に貢献しました。『国富論』の翻訳は1897年に始まり、1901年1月末に脱稿、上海の南洋公学訳書院から順次出版され、1902年末には完売したといわれています。
 展示資料は、清朝における海賊版排除の政策に従い、標題の前に、光緒29年6月26日(1903年8月18日)付の南洋公学訳書院の正規刊行物一覧が付されています。これらから考えると、本書は、光緒28(1902)年の木版刊記(奥付)を有する正規版ではありますが、後刷の可能性も皆無ではありません。

 第1冊

 巻頭標題部分

「斯密亜丹(スミスアダム)原富」

第1冊

第⼀章冒頭部分